あるはずが 地図から消えた志手遺跡
大分市のホームページに「おおいたマップ地図情報」というサービスがあります。
マップには「公共施設情報」「観光情報」「学校区情報」「医療施設情報」「文化財情報」などがあります。
「文化財情報」では市内にある遺跡の場所を赤色で表示し、そこをクリックすると名称を表示します。上の地図は文化財情報のマップを、このブログ「大分『志手』散歩」の筆者が加工したものです。
何のために文化財情報マップの加工をしたかというと、「志手遺跡」がマップに載っていないことを示すためです。
さほど重要な遺跡ではないのでマップには記載しなかった。そういうこともあり得るので大分市教育委員会文化財課に電話して「志手遺跡」について問い合わせてみました。
「志手遺跡の正確な場所が分かれば教えてほしい」と。すると、文化財課では志手遺跡について知らなかったようです。とりあえず調べてみるということで、問い合わせの翌日に受けた答えは「資料も何もないので分からない」でした。
「志手遺跡」についての記載は1955(昭和30)年発行の「大分市史」にあります。市史にある地図が下の写真です。
実は、このブログの筆者は志手遺跡の場所が書かれた地図を持っています。「『地図』から消えた毘沙門川」(9月25日公開)で紹介した大分県土木建築部河川課大分土木事務所制作のリーフレット「住吉川」にある「住吉川流域図」。この縮尺1万分の1の地図に「志手遺跡」の文字がありました。
大分市からは目ぼしい情報を得られなかったので、このリーフレットを作った大分県大分土木事務所に電話してみることにしました。
結論を先に言えば、大分土木事務所でも期待した情報を得られませんでした。ただ、少し調べ回るうちに意外な事実が分かってきました。なぜ、志手遺跡は大分市の文化財情報マップにないのか。その理由と志手遺跡を地図から消し去った“犯人”が浮かび上がってきました。
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大分土木事務所が制作したリーフレットには制作年月が書かれていません。住吉川の河川改修事業が終了したのは1982(昭和57)年度で、工事完了を記念して作られたのではないかと思われます。
地図がかなり昔のものであることはすぐに分かります。
上の地図はリーフレット「住吉川」の住吉川流域図の一部です。この地図にある「大分女子高」は「大分西高」に変わり、「警察学校」や「県営庭球場」はとうの昔になくなっています。この地図には高速道路の大分IC(インターチェンジ)も載っていないようです。
このリーフレットはいつごろ作られたものなのか。この地図の出所は?地図の原図のようなものが土木事務所に保管されているのか。そんなことを電話で聞いてみました。
調べて折り返し電話するとのことで土木事務所からの電話を待ちました。事務所からは数日後に電話があり、「リーフレットの制作年月は不明で、地図の原図のようなものもない」との話でした。
リーフレットには地図を製作した会社名と電話番号もありましたので、そこにも連絡してみましたが、いつ頃のものなのかなどは分からないという答えでした。
二つの地図 毘沙門川との距離が違う
わざわざ地図に書き込んであるのだから、場所を間違えることはないだろうと思うのですが、気になるのは1955(昭和30)年発行の大分市史にある地図です。
この地図では志手遺跡は住吉川(毘沙門川)から少しはなれた場所にあります。手書きで、だいたいの地点を示しただけだと考えれば、矛盾もないかもしれません。
しかし、どうも気になります。ということでもう少し調べてみることにしました。
向かったのは大分県立図書館です。図書館には文化庁文化財保護委員会の「全国遺跡地図(大分県)」と大分県教育委員会作成の「大分県遺跡地図」がありました。
左の地図は1967(昭和42)年版をコピーしたものです。縮尺が7万5千分の1で、大分市全域をカバーしています。これでは細かいところは分かりそうにありませんが、とりあえず拡大してみました。
すると、この地図では住吉川(毘沙門川)から少し離れたところに赤丸があります。この赤丸が志手遺跡の正確な場所を示しているとすれば、大分土木事務所のリーフレット「住吉川」にあった地図の位置とは違うように見えます。
どうなのでしょう。確かめるために大分県教育委員会が発行した「大分県遺跡地図」を見てみることにしました。
県教委の地図にはなかった志手遺跡
県立図書館には、大分県教委が2008(平成20)年と2018(平成30)年に発行した「大分県遺跡地図」がありました。両手で抱えるような大きなもので、これなら志手遺跡の正確な場所が分かるかもしれないと期待を抱かせるものでした。
上から順番にリストを見ていきます。「亀甲山古墳」「古宮古墳」とあり、ここらあたりかと見ると、次は「東田室遺跡」になっています。志手遺跡の名前はありません。
しかし、1967(昭和42)年と1975(昭和50)年に文化庁が発行した「全国遺跡地図(大分県)」には志手遺跡は確かにあるのです。
「志手遺跡」がリストにあります。ついでに言うと文化庁の遺跡地図に載っていた「田室遺跡」も大分県教育委員会が作った遺跡地図からは消えていました。
なぜ「あった」ものが「なくなった」のでしょうか。
考えられる一つは、昔と今では「遺跡」の定義が変わったということでしょう。「志手」や「田室」の遺跡は新しい遺跡の定義に該当しなくなったとか。このへんのことは筆者のような素人にはよく分かりません。
昔の遺跡地図にはあったのに最近の地図にはない遺跡というのはほかにもあるのでしょうか。志手遺跡が地図から消えた理由とともにもう少し調べてみたいと思います。
さて、なぜ大分市のホームページの「おおいたマップ地図情報」(文化財情報)に志手遺跡がないのか、ここまで調べてきて分かってきました。
つまり「大分県教委の『大分県遺跡地図』にないからだ」というのが答えと考えていいでしょう。実際、県教委のリストにはない田室遺跡も大分市の「おおいたマップ」にはありません。
調査、解明待たれた志手遺跡だが
最後に志手遺跡とはどんな遺跡だったのか。1955(昭和30)年発行の「大分市史」の記述を紹介しようと思います。
※田室遺跡の所在地は「東田室町」です。もしかしたら「田室遺跡」と「東田室遺跡」をひとくくりにして「東田室遺跡」と呼ぶようになったのかもしれません。
志手遺跡は弥生式後期の土器散布地とあります。弥生時代後期に作られた土器が見つかった場所ということでしょうか。
もう少し詳しい解説も大分市史にありました。
それが上の資料です。市史には「先の若宮遺跡や田室町遺跡等と年代を同じくする弥生式中期以降のものである」「遺物は土器の包含地で学術的な調査をみないために、その状況ははっきりしないが、大分市における有望な遺跡のひとつである」などと書いてあります。
市史によると、田室町遺跡は1949(昭和24)年4月に大分師範学校(当時 現大分大学教育学部)の渡邉澄夫教授を中心に同校歴史学研究会による調査が行われ、報告書も作成されたということです。
さらに若宮遺跡についても1950(昭和25)年春に大分師範学校による調査が行われたといいます。
そうした調査を踏まえて大分市史は志手遺跡の発掘調査を期待したのでしょうが、残念ながら本格的な調査はなされないまま「志手遺跡」の名前は大分県の遺跡リストからは外されることとなりました。
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